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【熊倉先生・特別寄稿】小学生にもわかる上野(こうずけ)三碑❸ 多胡碑が語ること 

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【熊倉先生・特別寄稿】小学生にもわかる上野(こうずけ)三碑❸ 多胡碑が語ること 

文化

みんなの学校新聞編集局 
投稿日:2017.11.24 
tags:群馬学 熊倉浩靖教授, 上野三碑 世界の記憶, 上野三碑, 多胡碑, 昔を語る多胡の古碑

 群馬の上野三碑が「世界の記憶」に選ばれました。とはいえ、上野三碑についてよく知らないという人も少なくないはずです。今回、群馬県立女子大学教授・群馬学センター副センター長の熊倉浩靖先生が「小学生にもわかる上野三碑」というテーマで、特別講義をしてくださいました。

 

多胡碑が語ること 法律による政治と主体的な地域づくりのはじまり  

 多胡(たご) 碑は、多胡郡という新しい 郡 (「ぐん」あるいは「こおり」)の成立を記念した碑です。
高崎市吉井町池(いけ)という所に建っています。多胡碑記念館が隣接しています。必ず寄ってみましょう。 三碑の複製品がそろっています。学習には最適の場所です。

 

 明治に入るまで日本の地域は国・郡・郷という制度で成り立っていました。国・郡・郷は群馬県,高崎市,吉井町に当たると言ってよいでしょう。
 多胡郡は、私たちの国が、日本という国号、大宝(たいほう)に始まる元号、律令(りつりょう)という法制度を整え、恒久(こうきゅう)の都を目指して飛鳥から奈良へと都をうつ した直後に、最初に造られた郡でした。 当然のことながら、多胡郡は、律令に従った政府の命令で作られました。命令書の写しと見られる記録が『続日本紀(しょくにほんぎ )』和銅四年(711)三月の条に見られます。

 

 「上野國(かみつけのくに) 甘 良 郡(かんら)の織裳(おりも)・韓級(からしな)・矢田(やた)・大家(おおやけ)、緑野(みどの)郡の武美(むみ)、片岡(かたおか)郡の山(やま)など六郷を割(さ)きて、別に多胡郡を置く」と書かれています。

 甘良郡は甘楽・富岡地区、緑野郡は藤岡市一体、片岡郡は高崎市の烏川右岸一体を指します。 多胡郡とされたのは高崎市の吉井地区・南八幡地区です。
 大まかな内容は、多胡碑の「上野國 (国)片(岡)郡、緑野郡、甘良郡、并(あわ)せて三郡の内 、三百戸は郡を成し、給羊、多胡郡と成る。和銅四年三月九日丙寅(ひのえとら)」と合っています。

 

多胡碑拓本【写真】多胡碑の拓本

 

 「給羊」の「羊」は、通説では人名で、羊という人に多胡郡の運営が任されたことだと考えられています。多胡碑記念館のビデオや解説はそうなっています。しかし、私は、その根拠に疑問を感じ、羊を動物の羊と考えています。どちらがふさわしいか、みんなも考えて下さい。

 多胡碑には、そのような謎がたくさんありますが、法律に基づく政治が確実に始まり定着していく様子を知らせる生きた記録です。しかし、改めて碑文と『続日本紀』とを比べてみると、書き方にはかなりの違いが見られます。多胡碑は政府の命令書の単なる写しではないようです。そこには、政府の命令を積極的に受け止めて新しい郡を作り出し、期待に応えていこうとする地域の人々の声が聞こえます。

 多胡郡だけでなく、元となった甘良郡、緑野郡、片岡郡も内外の様々な地域を出自とする多くの人々が住む、当時としては非常に高い人口密度を示した地域でした。そして、 石碑をはじめとする外来の様々な文化を受容し発展させていった地域でした。 多胡碑は、主体的な地域づくりと多文化共生、外来文化受容の先駆的な記録でもあります。

 

●熊倉浩靖教授プロフィール
 群馬県高崎市生まれ。京都大学理学部中退。シンクタンク勤務を経て、群馬学センター設置に伴い副センター長に就任。専門は日本古代史、社会教育、行政評価、地域づくりの多岐にわたる。
 主著「増補版 上野三碑を読む」(2017年・雄山閣)、他に「日本語誕生の時代 上野三碑からのアプローチ」(2014年・雄山閣)「井上房一郎・人と功績」(2011年・みやま文庫)「古代東国の王者 上毛野氏の研究」(2008年・雄山閣)編著に「群馬県謎解き散歩」(2013年・新人物文庫)など。

 

 

熊倉先生の上野三碑について書かれた新刊書「増補版 上野三碑を読む」

 

 

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