【塾の先生コラム】「教師」と『先生』❷(桐生進学教室)
| 「人として大事なこと」を教えてくれた人たちの思い出
学校以外でも、私には『先生』と呼べる人がいました。それは『人生の先生』あるいは『人生の師』とも呼べる人ですが、名前は知りません。
小さい頃(は?)病弱だった私を、祖母は毎年夏になると“湯治”に連れて行ってくれました。<七日帰りは良くない>ということで毎回七泊八日の日程でした。宿に到着するとすぐに「番頭さん」が出迎えてくれて、祖母や私から荷物を預かりながら深々と頭を下げて「坊ちゃん、今年もようこそいらっしゃいました。」とにこやかに挨拶してくれました。私のことを“坊ちゃん”と呼んでくれたのは後にも先にもこの人だけです。
小学5年生にもなるとちょっとは大人びたことをしたなるものです。夜の10時過ぎに「ひとりで大浴場に行ってくる」と祖母に伝えると「いまは番頭さんが入っているだろうから、やめて明日にしなさい。」と反対されました。すべての客が温泉に入り終わった後で(湯治場なので客はみな早く寝ます)、この番頭さんは全ての浴場をブラシでこすってきれいにし、そして自分の汗を流してから宿の中の“番頭部屋”に戻って寝て、朝一番に起きて宿の周りの掃き掃除や廊下の拭き掃除をするのだそうです。
番頭さんがいるのなら心強いなと、内心ホッとしながら祖母の反対を押し切って地下の大浴場に向かい、扉を開けたらそこに確かに番頭さんがいて身体を洗っているところでした。私が脱衣所に入って来た気配を感じて、番頭さんはすぐに洗うのをやめてさっと掛け湯をし、タオルで前を隠し体を縮ませながら「坊ちゃん、これからですかい?」と言って相変わらずこちらに前を向けたまま後ずさりをして浴場から出て行きました。番頭さんの背中の立派な“彫り物”が、ガラス越しにこちらに見えていました。
部屋に戻って祖母にそのことを話すと、「だから言わないこっちゃない。そりゃ番頭さんはきまりが悪かったろうね。そんなモノを見られて。」と、ため息混じりに私に言いながらも、その理由を静かに話してくれました。
「番頭さんは元○○○で、親分の命令で人を●してしばらく刑●所に入っていたんだよ。お努めが終わって出てきた時にはもうその親分は他界していてアニキ分の人が跡目を継いだんだけど、この番頭さんのことは何も面倒見なくてね。そんな番頭さんのことを見かねたここの宿の女将がすべてを承知で面倒を見ることにしたんだよ。その恩に報いるために番頭さんはその世界からすっかり足を洗ってね、ここの宿の番頭さんとして真っ当な人生をやり直しているんだよ。このことは誰にも言っちゃあいけないよ」
番頭さんも、女将さんも、そして私の祖母も、小学校5年生の「僕」にとって<人として大事なこと>を教えてくれた『人生の師』でした。
番頭さんは次の日も次の年も「坊ちゃん」といつもの優しい笑顔で挨拶をしてくれました。私も「おはようございます」「ありがとうございます」と、それまでと何も変わらずに、でも少しだけ大きな声で挨拶を返していました。
| ある英語教師の思い出
中学3年生の二学期のある日、少年は尊敬する英語の先生に向かってこういう質問をしました。
「先生はこの△△中学にサセンされて来たのですか。優秀な教師は○○中学に集まるって父から聞いたものですから。また、同じ公立中学校でも地域によってそんなに違うのですか。先生ほどの優秀な方が△△中に来た理由が知りたいです」
この失礼な質問に対してこの先生はちゃんと語ってくれました。「私が△△中に来た理由は言えないが、何の理由もなく来たわけじゃない、もちろん左遷ではない。そして同じ公立中学でも学校間格差は確かに存在する。たぶんそれは地域の特性や親の意識の違いによるものだろう。この△△中は1学年が4クラスで毎年何人がキリタカに入っているだろう、例えば○○中は1学年5クラスで毎年40人以上が合格している。皆が当たり前に勉強しているから」
私の学年はキリタカには14人が合格しましたが合格者が二桁になったのは初めてだったそうです。
この先生は私の他の質問にも、それがプライベートな質問であっても、ちゃんと語ってくれました。学生時代のエピソード、留学時代の経験、教師を目指したきっかけ、さらには私の英語の実力についてまでも。この関係を以って私は勝手に<この先生と僕は教師と生徒を越えた師弟の関係にある>と思っていました。
(つづく)
※ このコラムは3回連載を予定しています。
プロフィール
丹羽塾長
<現職>
桐生進学教室 塾長
<経歴>
群馬県立桐生高等学校 卒業
早稲田大学第一文学部 卒業
全国フランチャイズ学習塾 講師
都内家庭教師派遣センター 講師
首都圏個人経営総合学習塾 講師
首都圏個人経営総合学習塾 主任
首都圏大手進学塾 学年主任
都内個人経営総合学習塾 専任講師