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【シリーズ】大人バトン◆シブヤから移住したIT起業家の逆張り人生(上)(CICAC 社長 今氏一路さん)

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【シリーズ】大人バトン◆シブヤから移住したIT起業家の逆張り人生(上)(CICAC 社長 今氏一路さん)

ライフ

みんなの学校新聞編集局 
投稿日:2025.02.19 
tags:minimu 足利, MITT CICAC, 今氏一路, 今氏一路 CICAC, 今氏一路 桐生, 大人バトン

 大人になったからこそ、自分の若い頃を振り返り、若者たちに伝えたいことがある。「今の若い奴は・・・」といった説教なんかじゃない、もっと大切なもの。失敗や成功も含めて未来の若者につないでいきたい心のあり方や生き方。先人たちから受け取ったバトンを次につなぐことで、私たちは歴史を紡いできた。第一線で活躍する「大人たち」からのバトンを紹介するシリーズ「大人バトン」の4回目は桐生に移住したIT起業家の今氏一路さんです。 

 

【写真】CICACオフィス内で(桐生市)

 

 24年11月29日、桐生市でタクシー不足を解消するために「日本版ライドシェア」のサービスがスタートした。その運行管理はMITTと呼ばれるアプリが担っている。このシステムを手がけたのが市内のIT企業・CICAC(シカク)だ。創業者の今氏一路は都内の大手IT企業を経て、2017年に渋谷で同社を起業、2年前に桐生に移住した異色の経歴の持ち主だ。人口減少が進むこの町で今氏は何を見つめているのだろうか。

#地方の課題解決をしたい


 桐生市の中心部にCICACのオフィスはある。〝ニノサ〟と書かれた電飾看板と熱帯植物が飾られている入り口はまるでカフェかショットバーのような構えだ。扉を開けると薄暗い倉庫然とした仕事場に今氏一路(42)は現れた。

 

「ITでなんかチャラチャラしたいだけだろみたいな雰囲気あるかもしれないですけど、周りが思っている以上に地方の課題解決をやりたいと思ってるんです」と真顔で話す。


 日本版ライドシェアは大都市圏や観光地で盛り上がりを見せているが、本当に必要なのはむしろ地方だと今氏は力説する。

 

「少子高齢化が進む中で、山間部などの公共交通が維持できていないところも出始めています。さらに今後人口減少が加速すれば、一般人が一般人を輸送できるっていうのは重要な役割を担っていくと思います。消防団じゃないですけど、地元の交通は地元の人が守る。それを実現するためのシステムを作りたいですね」

【画像】配車アプリMITTのしくみ(CICACプレスリリース資料より)

 

#コピペの風景に感じる嫌悪感


 都会育ちで、これほどまで地方復興の思いを語る日本人は珍しい。都会的な雰囲気をまといながら、どこかそういったものへの嫌悪感を忍ばせているようなアンバランスさを今氏は持っている。その嫌悪感のルーツは「生まれ育った原風景が深く関わっている」と彼は言う。

 

 1983年、神奈川県相模原市の生まれ。父親の仕事の関係で小・中・高時代は埼玉県浦和市で過ごした。今氏は青春時代を過ごした埼玉の風景にずっと苦手意識を持っていたという。国道沿いに同じようなチェーン店が並ぶというベッドタウンの、あの光景だ。

 

「家と言うより箱で、納税するために生きるみたいな感覚が嫌で。ボクはコピペって呼んでいるんですけど、日本全体が『埼玉化』しているっていうか。日本が進んでいくのはこっちなのかっていう気持ち悪さを感じています」

 

 

#今氏に根ざした逆張りの性格 大学は海外に


 今氏の人生をひも解くと、世の中の大きな流れに乗らないで、あえて別方向へ進もうとする力学が働いている。みんなが国内の大学に進学する中、あえて海外を選択したり、東京一極集中の風潮の中で地方に移住し、生活を謳歌していたり…。この今氏「らしさ」は幼い頃にはすでに芽吹きはじめていた。

 

「天の邪鬼というか、ゲームとか漫画とか、みんながやってることは基本的にやらないっていうタイプでした。みんなと一緒に何かをできない性格で、落ち着きのない子でした。だから、人づきあいも〝狭く浅く〟って感じ。学校ではずっと寝てましたね」

 

 国際文化系統が学べる地元の公立高校に進学し、部活動はサッカーに明け暮れた。進学を目前に控え、学力的には難関大を狙うのが厳しいのが見えていた。かといって、中途半端なレベルの大学にも興味が持てなかったし、まして就職の意思もなかった。ただ、漠然と何かを成し遂げたい思いを胸の内に抱えながら、モヤモヤする日々を送っていた。そんなとき、父親から海外の大学進学を勧められた。

 

「親元から離れて海外というのが、ビビって来たんです。他の子とは違う道を行くことにワクワク感を感じました」

 

 かねてから日本社会の同調圧力に違和感を覚えていた。周りにあわせなければいけない雰囲気の中で、打ち解けきれない人間関係に窮屈さを感じていた。

 

「日本という環境からいったんちょっと離れたいって気持ちが正直ありました」

 

 高校卒業後、半年ほどの留学準備期間を経て、ニューヨーク州立モホークバレーコミュニティカレッジ(公立2年制)に入学した。専攻はデザインだった。日本の学校では授業中寝て過ごすことが多かった今氏が、寝る間も惜しんで勉強にのめり込んだ。個人主義のアメリカ社会も居心地が良い環境だった。

#今氏のキャリアを変えたフラッシュとの出会い


【画像】写真ACより(イメージです)

 帰国後、神楽坂にあるデザイン会社に就職した。

 だが、デザイナーという比較的自由度の高い職業であっても、今氏が感じていた日本社会の「違和感」は根づいていた。アメリカ帰りの彼にはその「違和感」がくっきりと映った。クライアントから渡されたイメージを忠実にこなすのが役割で、デザイナー側からの提案は受け付けてもらえない仕事のやり方が馴染めなかった。

 

 「もちろん今なら理解できるんです。クライアントがお金出しているわけだから。でも当時は若かったというのもあるし、アメリカではクリエーターがクライアントと対等な立場で『こうすればもっと良くなる』と提案して作っていくのが当たり前だったので、よりその違いを鮮明に感じたんでしょうね。仕事って、こんなにも面白くないんだって挫折感を味わったというか…」

 

 そんな折、Adobe社の開発したフラッシュプレーヤーと出会った。勤めていた会社の案件でフラッシュプレーヤーを使った仕事が増えてきていた時期に、今氏はフラッシュ制作を担当する部署に異動になった。

 

「デザインしたものがプログラムによって動いたりするのが面白くて、没頭しましたね」

 

 プログラミングは専門ではなかったが、仕事をこなしながらスキルを磨いた。勤めていた会社は出版社系のプロダクションだったので、さらにその技術を磨くため、IT系の企業に転職。その後、テレビ朝日のウェブ部門でフラッシャーとして採用された。

 

 テレ朝時代にバディを組んでいた上司がサイバーエージェントに転職することになった。2009年当時のサイバーといえば、Ameba事業を立ち上げ「アメーバピグ」が流行していた時期にあたる。その上司から「お前も来てほしい」と口説かれた。悩んだ末、今氏もサイバーへの転職を決意、ITエンジニアとして働くことになった。26歳のことだった。

【つづく】

 (取材・構成=峯岸 武司)

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