「精神の自由」が「精神活動の自由」になっていた!~教科書用語選定の舞台裏
教科書の改訂が行われて半年。学ぶ内容はもちろんのこと、その用語の一つ一つが見直されている。今回は教科書用語の選定の舞台裏を追った。
■現場のつぶやき
「今年は本当に教材作りが忙しいですよ」
こう漏らすのは、伊勢崎市内の学習塾で理数系の教科を担当する講師だ。講師は自分の授業で使用するプリント教材を自作しているため、教科書の改訂に合わせて、その作り直しを余儀なくされている。
「今回の改訂は英語など文系教科が大変だと聞いていたので、少し高をくくっていました」
講師によると、教科書で重要とされている用語がだいぶ変更されているそうだ。
「たとえば、化合という用語が使われていません。そうすると、自分の作った教材に出現する『化合』というワードをすべて書き換えなければなりません。この作業が結構大変なんです」
■理科の教科書の用語が改訂された裏事情
実際、教科書を発行する東京書籍によると「(教科書では)「化合」を重要用語として扱わず、注釈で『単体どうしが反応して化合物を生じる反応を化合とよぶこともある』と変更した」と扱いを変更した理由を説明している。
2016年度以前の中学校教科書では,化学変化をすべて「分解」か「化合」の2種類に分類して表現していた。しかし、2016年に「化学変化の表現の正確性に欠ける」と日本化学会が指摘。同学会では「化合」の用法を「単体同士の反応に限って」使用するよう提案した。
これを踏まえ、新学習指導要領から「化合」という用語が削除された。東京書籍は指導要領の変更に従った形だ。
同様に「イオン式」という用語も教科書から消えた。以前の中学校・高校の教科書では、イオンを表す化学式を特別に 「イオン式」と呼んでいた。だが、特別に用語として暗記させる必要がなく、生徒の負担が増えるという懸念から、2015年に日本化学会は「化学式」と呼ぶように提案した。
ずいぶんと教科書改訂に影響力をもつ日本化学会とは、化学に関連する仕事をしている研究者・企業人・学生を主な構成員とする学会で、国内最大の化学系学術組織だ。そして、同学会が2014年に立ちあげたのが「化学用語検討小委員会」だ。
同委員会は中学・高校の教科書を調べ上げ、
① 意味がすんなり伝わるか?
② 大学の教育・研究と整合するか?
③ 国際慣行に合うか?
の3つの観点から、基準に合わない用語の代案づくりを行った。
この検討委員会の委員長をつとめた東京理科大学教授の渡辺正氏によれば「初中等の教科書検定で、文科省は用語を『学術用語集』に従わせます。けれど計32分野の『用語集』は全部が事実上の絶版 で、『化学編』だと1986年の版から30年以上も改訂されていません。もはや時代遅れの文書なのです」。
同委員会の提言は、教科書用語の時代のズレを補正し、最新の学会の動向を反映させるものともいえる。理科の教科書で言えば、化学分野だけでなく、生物や地学分野の学会からも提言が行われている。
たとえば、東京書籍の教科書では、遺伝の単元で「優性形質」「劣性形質」という用語は姿を消し、「顕性形質(優性形質)」、「潜性形質 (劣性形質)」の表記に改められた。
「劣性」=「劣っている」という誤解が生じる懸念があり、2017年に日本遺伝学会から「優性」「劣性」を「顕性」「潜性」に変更するように提言がなされたためだ。同社ではこの提言を受けて、従来使用していた用語と併記することを決めた。
用語の変更が行われた東京書籍発行の理科の教科書
■あれ? 精神の自由じゃなかったっけ?
こうした用語改変の動きは理科に限った話ではない。
社会科教科書「中学生の公民」を発行する帝国書院では、2021年度版の教科書から「精神の自由」という用語を「精神活動の自由」に変更した。
「そもそも、この用語に関しては、日本国憲法に明確な文言がないため、憲法学の書籍や各種教科書では『精神活動の自由』『精神の自由』『精神的自由』などさまざまな表現がなされています」
こう話すのは帝国書院第一編集室の遠藤正幸さん。
「これまで弊社の教科書では,読者の中学生にとって平易な表現であることから『精神の自由』と表記してまいりました。2021度版では,新たにお迎えした憲法分野の著者の先生と相談し、内面的な精神の動きの自由だけでなく、精神の働きを外部に表現する自由などを含めるニュアンスとするために、『精神活動の自由』と表記を変更いたしました」と用語変更の背景を説明する。
旧版の帝国書院の「公民」の教科書(上)、新版の同社の教科書(下)
地理や歴史の分野でも教科書の改訂が行われるたびに用語の見直しが行われている。同社では教科書に掲載する用語に関して、著者の見解や学説の動向、児童・生徒の理解しやすさなど、さまざまな面を配慮して編集している。
一例をあげれば、いまの世代の子供たちは、三陸海岸のような入り組んだ海岸地形を「リアス海岸」、弥生時代に米を貯えた倉庫は「高床倉庫」と学ぶ。一世代前だと「リアス式海岸」「高床式倉庫」と習ったはずだ。
教科書には学会の最新の学説や動向が反映されている。その用語や表現ひとつひとつひとつを、研究者や編集者が丁寧な議論を重ねながら紡いでいる。そんな舞台裏を想像してみると、普段何気なく使っている教科書のありがたみが一層増す。
(編集部=峯岸武司)