【塾長のショートコラム(2)】私立高校の選び方❶ 校長は学校の顔。ちゃんと顔はあるのか?
私立・公立を問わず、どの高校も「入学説明会」では<イイコト>しか言わないものです。また、質疑応答の機会があったとしてもなかなか<ネガティブな質問>はできないものです。
ところが、去年のとある私立高校の「塾長説明会」で、たぶん新人の塾長なのでしょう、空気を全く読まずに(読めない、もしくはとても率直で正直な人なのかもしれません)、さすがの私でも恐れ多くて質問できないコトを、最後の質疑応答の時間に挙手をして臆することなく尋ねていました。直接的な文言はその衝撃のあまり私の記憶に留め置く余裕がありませんでしたが、その内容は雑ぱくに言うと以下のようなものでした。
「PVを拝見する限り貴校はとても楽しそうな学校ですが、朝礼の時間が長くて中には倒れてしまう生徒がいると聞いています。先生の講話のお時間をもう少し短くするようなことはできないものでしょうか」
これに対して答弁に立った校長先生はキッパリはっきりと答えていました。「大丈夫です。すぐに担架で運びますから」
私は驚きました。朝礼で生徒が倒れてもそのまま最後まで話を続けることは、この校長先生にとっては<ネガティブ>どころか堂々と答えることができる<ポジティブ>なことなのだ、ということが分かったからです。この高校の校長先生には『信念』があることを再認識させられた瞬間でした。
そして、これまで私の塾で生徒たちに言ってきたことが真実であり、私の進路指導は間違っていなかったことが証明された瞬間でもありました。
「〇〇高校での三年間は“修行”だと思いなさい。第一志望校に入れなかった悔しさ、中学の時に成績を伸ばせなかった悔しさをバネにして、限りなく自分を追い込んで、しっかり勉強しなさい」
この言葉と共に送り出された生徒たち(卒塾生)は皆、私が予想していた大学よりもワンランクもツーランクも上の大学に合格し進学して行きました。
※写真はイメージです。本文とは一切関係がありません。
以下に述べることは、もしかしたら私立高校に対する私の、“個人塾の塾長”としての“願望”になるのかもしれませんが、しかしだからこそキッパリはっきりと述べさせていただきます。
私立高校にはその高校独自の『カラー』が求められます。それは『個性』とも『伝統』とも『イズム』とも言い換えられます。そしてその高校の『イズム』を代表しているのが、『校長先生』です。
校長は、「学校の代表」であり「学校の顔」でもあります。そして卒業生・同窓生たちを繋ぐ「象徴的存在」であり、ぶれることのない「伝統の軸」でもあります。公立高校の校長が数年で交代(定年退職)するのに対して、私立高校の校長は体力や気力が衰えたと自ら判断するまでは長い期間に渡ってずっとその職に留まることができます。
だから、私のような者には疑問でなりません。公立高校を退職した者を「校長」として受け入れる私立高校(理事会)が。
ましてや元の職場が公立“中学校”である場合は、疑問を通り越して疑念すら抱いてしまいます。なぜなら、まさに「畑違い」だからです。中学生への指導と高校生への指導は、学業(勉強の内容)もそうですが、“人間形成”の指導もまったく次元が異なります。だから、その校長はシロウトも同然だと言っても過言ではありません。
そして、いずれにしても再就職をした「雇われ校長」は、結局は公立高校と同じように数年でまた退職して行くでしょうから「学校の顔」として定着することができませんし、『イズム』も育ちません。その高校の教職員にとっても、突然「天下り」してきた者にはそう間単になびくとは思えません。つまり学校が一つにまとまることができないと思ってしまうのです。
また、校長はもし学校に何かの不祥事が発生すれば当然その責任を取ることが求められます。それは教職員の不祥事に対しても生徒の不祥事に対しても同じです。しかし「雇われ校長」ではそれへの意識(責任感)があまり高くはないのではないかと思われます。なぜなら「公務員としての職務上の責任は個人の責任としては追及されない」という原則が<国家賠償法第1条第1項>に明記されており、長らく公教育に携わってきた者の意識の中にはそれが染み付いていると思われるからです。それに、責任を取って辞職したところで所詮は「再就職」で、公務員としての退職金は満額を貰っているわけですから、少なくとも経済的には何の損害も受けることはありません。
<国家賠償法第1条第1項>
「国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」
→ つまり、個人の責任は追及されない、ということです。
『教育』は、法律で割り切れるようなものではありません。教える者(導く者)と教わる者(学ぶ者)との真剣勝負です。ましてや教わる側は未成年者で社会規範も多くの者が未完成・未成熟です。そんな「生徒」に対して真剣に指導してくれるのは「先生」という『個人』です。時には“きわどい指導”をする先生もいることでしょう。しかし『教育』が個人と個人・個性と個性のぶつかり合いである以上は常に『個人の責任』というリスクを抱えざるを得ません。だからそんな「先生」たちの上に立つ「校長」は、生徒の成長と教師の指導に対して「職務としての責任」だけでなく先生たちと同様に『個人としての責任』を持つ存在でなければならないと考えます。
さらに校長は、『伝統』と『イズム』の継承者つまり「次期校長」の候補を選び育てる責任も負っていなければなりません。校長が替わるたびに学校の指導方針をコロコロ変えられてしまっては堪ったものではありませんし、『私立高校』としての存在意義そのものが無くなってしまいます。逆を言えば、校長が替わっても学校の指導方針が変わらないのであればいったい何のために彼は居るのか、別に居なくても構わないじゃないか、では一体だれが指導方針を決めているのか、ということになります。
『校長』は教育者で、理事会は言わば「会社役員」です。「校長」は公立高校にもいますが社長・常務・専務といった役員は高校にはいません。(いるとすればそれは県および県民ということになるでしょう。)
私はそういう「校長」がいる私立高校を、塾生の進路の対象としてはマイナスに評価しています。そんな学校に、せっかく育てた大切な生徒を託する気にはなれないからです。
保護者の皆さんはどのようにお考えでしょうか。
プロフィール
丹羽塾長
<現職>
桐生進学教室 塾長
<経歴>
群馬県立桐生高等学校 卒業
早稲田大学第一文学部 卒業
全国フランチャイズ学習塾 講師
都内家庭教師派遣センター 講師
首都圏個人経営総合学習塾 講師
首都圏個人経営総合学習塾 主任
首都圏大手進学塾 学年主任
都内個人経営総合学習塾 専任講師