【私小説】Nの青春<第7章> その2
第7章
まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき
~ 島崎 藤村 ~
(その1を読む)
「日向見荘別館」は和風の「本館」とは異なり鉄筋コンクリート造りのホテルのような大きな建物で延べ床面積も広く宿泊室や宴会場や大浴場やゲームコーナーなどの特別室も多かったのだが、谷あいの狭い斜面に建てられていたために廊下や階段が複雑に入り組んでいた。外は外で道路の片側は山で反対側は谷だった。道路にはガードレールがあったが小さな子供ならその隙間をくぐり抜ければ簡単に谷川に転落する危険性があった。
館内はちょっとした騒ぎになった。もうNのおでこのことなど誰も気にしていなかったし、Nもおでこの痛みを感じるヒマもなく館内を一生懸命に探した。
30分ほどして、ユキちゃんが真剣な顔で息を切らしながら「戻って」きた。手には「オロナイン」と「バンソウコウ」を握りしめていた。片道で500mほど離れた「本館」の“自分の部屋”までNの傷の手当の品を走って取りに行って来たのだ。ユキちゃんはNよりも一つ年下でまだ幼稚園(保育園)の園児だったので後先のことなど考えられるわけもなく、ただ「Nの傷の手当」のためだけに直ぐに行動に出てくれていたのだ。
もちろんユキちゃんはオトナたちからはすごく叱られた。でも耳では叱られながらも目はしっかりとNの方を見て、Nのおでこの傷がちゃんと処置されているのを確認して「よかったね」と安堵の表情を浮かべていた。
この時の記憶が鮮明なのはNの心が強く動いていたからで、しかしそれは決して「恋」をしたからではなくむしろ<愛>の本質を強く感じていたからであろう。いや、もしかしたらNはユキちゃんに「恋」をしていたのかもしれない。
Nの小学生時代の「遊び」の記憶は、自宅で一人お絵描きをしているか自宅近くの山や川や田んぼのあぜ道などで花や昆虫と戯れているか、あるいはユキちゃんの家の中でユキちゃんの姉と一緒に三人で遊んでいるかのどれかで大部分を占めており、近所の男の子たちとの遊びの記憶は僅かしか無い。それにユキちゃんの家に遊びに行くときには親には内緒で(むしろ嘘をついて)出かけていたので、これはもう「恋」と言ってしまってもよいのではないだろうか。本人の自覚が無かっただけで。
そして、ユキちゃんたちがNの家に遊びにくることは一度も無かった。Nの両親は(特に母親の方が)Nがユキちゃんの家と関わることを嫌っていたからだ。ユキちゃんの家はちょっと複雑な事情を抱えていたのだ。だからこそNの祖母はそれらを承知の上でユキちゃんと姉とおばあちゃんを湯治に誘ったのかもしれない。Nの祖母はそういう人なのだ。
そうなるとNの最初の曖昧な記憶の相手の女の子も「ユキちゃん(仮)」であった可能性が出てくる。Nの父親のあのキツイ言い方はたぶん母親の強い依頼を受けてのことだったのだろう。そう考えると色々なことが今さらながらに見えてくるものだ。
もしかしたら「初恋」というものはその時には全く気付かなくて後から思い返してやっとそうだった(かもしれない)と気付くものなのかもしれない。
現在のユキちゃんの記憶の中にどれだけNに関わるものが存在しているのかは直接本人に尋ねてみるしかないのだが、どこでどんな暮らしをしているのか今では全く知る由も無い。
(つづく)
プロフィール
丹羽塾長
<現職>
桐生進学教室 塾長
<経歴>
群馬県立桐生高等学校 卒業
早稲田大学第一文学部 卒業
全国フランチャイズ学習塾 講師
都内家庭教師派遣センター 講師
首都圏個人経営総合学習塾 講師
首都圏個人経営総合学習塾 主任
首都圏大手進学塾 学年主任
都内個人経営総合学習塾 専任講師