【シリーズ】大人バトン◆機械の分解に夢中になった少年の「いま」④最終回(ユニマーク・尾花社長)
大人になったからこそ、自分の若い頃を振り返り、若者たちに伝えたいことがある。「今の若い奴は・・・」といった説教なんかじゃない、もっと大切なもの。失敗や成功も含めて未来の若者につないでいきたい心のあり方や生き方。先人たちから受け取ったバトンを次につなぐことで、私たちは歴史を紡いできた。第一線で活躍する「大人たち」からのバトンを紹介するシリーズ「大人バトン」がスタートします。
【写真】株式会社ユニマークの尾花靖雄社長(同社にて)
「機械いじりが小さい頃から好きで、壊れた扇風機を修理したり、直せないくせに分解してみたりするのが好きな小学生でしたね。故障した機械をあれこれいじっている内に、直してしまうようなこともありました。多分接触不良だったんでしょうけど、機械いじりの面白さを知った原点でした」
オリジナル刺繍やプリント加工で知られる株式会社ユニマーク(本社・桐生市相生町)の尾花靖雄社長は自身の小学生時代をこう振り返る。そして、この少年時代の記憶がその後の尾花さんの人生に大きな影響を与えることになる。
OSMC(オンラインショップマスターズクラブ)の勉強会に参加し、尾花さんは「ワッペン屋ドットコム」というオンラインショップを立ち上げた。月5万円程度の売上を伸ばすため、いろいろなイベントに協賛した。参加者のワッペンを無料で配り、その代わり宣伝させてもらう営業だ。
当時の生活はとても苦しかった。保険は解約し、自動車は処分した。家財もフリマなどで売り、食い扶持を確保した。具の入っていないお好み焼きやおからなどで空腹を満たした。
趣味のルアーフィッシングも仕事につなげた。釣りの情報交換サイトを立ち上げ、「ネイティブ」というサークルを作った。「下心もあったんですけど、ワッペンを売りたいっていう一心でした」。
当時、ブログもない時代だ。いわゆる掲示板サイトだった。「テキストでもらった投稿を全部自分でアップして配信したり、『日光でこんなマスを釣りました!』みたいな写真をもらって配信したり・・・」。
運営しているうちに会員が800人くらいまでふくらんだ。入会金をいただいて、会員には専用の帽子とワッペンを送った。だんだんその界隈で有名になり、釣り具メーカーが協賛するほどに成長した。釣りはワッペンを使う機会が多い。いろいろな釣りクラブのワッペンの受注が増え、売上も順調に伸ばした。釣りに行くと「ネイティブの尾花さんですかと声をかけられるほどになりました」。それでも、まだ月100万円の返済にはほど遠い状況だった。
そんな折、三ツ葉電機製作所の元上司が「そんな大変な状況だったら、仕事を出すからやらないか」と声をかけてくれた。昔やっていたロボット設計だ。本社からの案件だったのでそれを丸ごと外注として受けることができた。「この仕事がなかったら今の自分はないというくらい助けられました」。
その設計の仕事が忙しくなり、惜しまれつつも釣りサイトは閉鎖した。
設計の仕事を夜中にした時は昼間にワッペン製造の仕事をした。その逆もあり、とにかく寝ずに働いた。「1日の睡眠時間は3~4時間ほどでしたね。一年364日くらい働いていました。子どもの学校行事に参加するときは事務所の電話をすべて携帯電話に転送にして、いつでも仕事に対応できるようにしていました」
悪戦苦闘を繰り返すうち、事業はだんだん好転し始めた。2002年に立ち上げた事業は「ユニマーク」として法人化する。
リスティング広告が世に出始めた頃、参加していた勉強会でGoogleやYahoo!の広告について学んだ。試しに広告を出してみたら、ワッペン屋ドットコムの売上が倍増した。ネット通販で月商100万円くらいを稼げるようになった。同時に、寝ずに頑張った設計の仕事も80~100万円の売上が立った。返済も順調に進み3年でついに完済した。
3年の苦しい時代を経て、事業は順調に成長を続けた。世界規模のスポーツイベントのワッペンや、大物アーティストのライブ衣装のワッペンなど受注するなど、地元桐生の枠を超え、国内外から仕事が入るようになった。
そんな尾花さんはいまの中高生にこんなメッセージを送る。
「私は20代、損得ぬきにがむしゃらに仕事しました。苦労しましたが、結果的にその時、身につけたことが後々に生きてきました。全力で打ち込むことで得られるものが必ずあるから、諦めず頑張ってほしいと思います」
機械の分解に夢中になった少年は、いま世界を相手に戦い続けている。
(おわり)
掲載予定 4回(6/15、6/16、6/22、6/23)