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【編集長コラム】2100食の廃棄が問いかける、私たちの「正しさ」の正体

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【編集長コラム】2100食の廃棄が問いかける、私たちの「正しさ」の正体

オピニオン

みんなの学校新聞編集局 
投稿日:2026.03.24 
tags:いわき市 赤飯 廃止, 東日本大震災, 過剰反応 社会, 食品ロス, 食品廃棄, 飽食 飢餓

写真はイメージです(写真AC)

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 福島県いわき市の中学校で、卒業式前の給食として提供予定だった赤飯が、一本のクレーム電話によって提供中止となり、約2100食が廃棄されたというニュースがあった。

 3月11日。言うまでもなく、東日本大震災が発生した日である。その日に祝いの赤飯を出すのは「不適切ではないか」という声が寄せられたという。

 だが、本当にそれは「不適切」だったのだろうか。

 

震災から15年、その時代に生まれた命

 今年で震災から15年。卒業を迎えた子どもたちは、まさにあの震災の年に生まれた世代だ。混乱と喪失の中で産声を上げ、復興の歩みとともに成長してきた存在でもある。その彼らの門出を祝う行為は、単なる「祝い」にとどまらない意味を持ち得たはずだ。

 生を祝うことと、失われた命を悼むことは、本来対立するものではない。むしろ、両者は地続きにある。赤飯はたしかに祝い事の象徴とされるが、地域によっては仏事にも用いられることもある。その意味で、あの日を忘れないという祈りと、これからを生きていく子どもたちへの祝福は、同時に存在し得たはずだ。

 にもかかわらず、たった一件のクレームによって提供が取りやめられ、結果として2100食もの食事が廃棄された。この市教委の判断は、あまりにも短絡的であり、思考停止と言わざるを得ない。

 もちろん、被災者への配慮は必要だ。震災に特別な思いを抱く人々がいることも理解できる。しかし、だからといって、あらゆる表現や行為を「誰かが不快に思うかもしれない」という一点で排除していく社会は果たして健全だろうか。

 

「配慮」という名の”排除”が招くもの

 近年、こうした傾向が顕著だ。インターネットを中心に、感情的な反応が増幅され、個別のクレームが社会全体の判断を左右する。声の大きさや拡散力が、そのまま「正しさ」であるかのように扱われてしまう。

 その結果、学校や企業の現場は過剰に萎縮する。批判されるリスクを避けるために、「やらない」という選択が積み重なっていく。そこには熟慮も対話もない。ただ波風を立てないための消極的な判断だけが残る。

 

捨てられた2100食と失われた教室での学び

 さらに、今回の件で見落としてはならないのは、「食品ロス」という観点である。世界には飢餓に苦しむ地域がある一方で、先進国では大量の食品が廃棄されている現実が横たわっている。この問題は、単なる社会科の知識ではなく、倫理の問題でもある。

 食品廃棄についての問題は公民の教科書の後半で取り上げられ、まさに彼らはその社会課題について学んだばかりだ。その授業の直後で、2100食もの食事が廃棄される。この出来事は、単に食べ物を無駄にしただけではなく、学びそのものを空洞化させてしまった罪深さをはらんでいる。

 

「無色透明」な社会の先に未来はあるか

 「誰かを傷つけないこと」は重要だ。しかしそれが行き過ぎれば、「何もできない社会」へと転じる。多様性の尊重を掲げながら異論や多様な価値観を受け止める余地がない社会。結果として、すべてが無難で、無色透明なものへと収斂していく。だが、その透明感は果たして健康的で美しいものなのか。その内側に毒を隠し持っていないか。社会全体で真剣に議論し検証していかなければならない。

 本来、社会とは揺らぎの中でバランスを取るものだ。祝いと追悼、自由と配慮、個人の感情と公共の判断。そのどれか一方に過剰に傾いたとき、社会は歪んでいく。今回の赤飯の一件は、小さな出来事のようでいて、実はその歪みを象徴している。

 それにしても、私たちはいつから、「たった一つの声」にここまで過敏になったのだろうか。そして、その声に応じることが「正しさ」だと、無批判に信じるようになってしまったのだろうか。過剰反応の連鎖は、やがて社会の思考力そのものを奪う。

 祝うことも、悼むことも、考えることすらもためらう社会に、果たして未来はあるのだろうか。


みんなの学校新聞

編集長 峯岸武司

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編集部より 記事は配信日時点での情報です。

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