【塾長のショートコラム(4)】「勉強しなさい」は虐待か?
警察庁のまとめによると、児童虐待の疑いがあるとして警察が2022年に児童相談所に知らせた18歳未満の子供の数は11万5730人(暫定値)で前の年よりも7.1%増えて過去最多となり、そしてその内訳は子どもの心を傷つける「心理的虐待」が約7割で、「身体的虐待」「育児放棄」「性的虐待」という順で続くそうです。(朝日小学生新聞・令和5年2月7日号より)
「虐待」と同様に子どもたちの心身の発達に重大な影響を及ぼすものに「いじめ」があります。
現在の「いじめ」の定義は、<児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの>としています。
さらに、<「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含まれる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮のうえで、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である>と続けています。(どちらも文部科学省のHPより引用)
昭和61年度からの(以前の)定義では<①自分よりも弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているものであって、学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わないものとする。>となっており、現在の「いじめ」の定義である<対象となった児童生徒の心身の苦痛>がまったくと言ってよいほどに無視されていました。
「いじめ」はいまだに無くなってはいませんが、「いじめ」の定義は<より被害者の方へ>と、<学校から警察へ>つまり<教育から犯罪へ>と移り変わっています。被害を受けている児童生徒や周囲の子が勇気をもって声を挙げれば少なくとも状況を変えられる可能性が存在しています。
「いじめ」は『学校』という集団の中で発生しますので、その中の誰かが(それは児童生徒たちだけではなく時には先生自らが)周囲や外部のオトナ(学年主任や部活の顧問や校長先生、近所のおじさんやお巡りさんや通りすがりの親切そうな人、あるいは町会長さんや市会議員や県会議員、さらには塾長など)に相談してもよいわけですし、実際に相談することができます・しています・されています。
「いじめ」が発生する主な現場である『学校』は、年齢が6歳を過ぎてから通うところなので、たとえ子どもで拙いとはいえ誰かと意思疎通をすることは十分に可能ですし、自分の家と友だちの家との違いくらいは十分に認識できている年齢です。
それに対して『虐待』は、早期においては「生後直ぐに」または「物心がつく前に」始まります。つまり自我が芽生える前にそういう過酷な環境下に置かれている子どもはそういう過酷な環境の中で自我が芽生えてくる、ということになります。英語を話す環境に生まれ育った赤子は、たとえ純粋な日本民族であったとしても「母語」は英語になりますし、見た目が碧眼金髪の白人であっても日本国内だけで生まれ育った幼児は頭の中の発想思考ですら日本人そのものになります。おそらく鏡も見なければ自分の外見も自分の目に映っている隣人と全く変わらないものと認識するはずです。
極端な言い方をすれば、前述したそういう環境下で育った子どもたちは「自分が虐待を受けている」という自覚すら持てないでいるのではないでしょうか。その点において『虐待』は『洗脳』よりも悪質な、残虐で暴力的な反民主主義的な行為であると断言できます。
厚生労働省は『虐待』については以下ように定義しています。
<児童虐待は以下のように4種類に分類されます。>
身体的虐待 |
殴る、蹴る、叩く、投げ落とす、激しく揺さぶる、やけどを負わせる、溺れさせる、首を絞める、縄などにより一室に拘束する など |
性的虐待 |
こどもへの性的行為、性的行為を見せる、性器を触る又は触らせる、ポルノグラフティの被写体にする など |
ネグレクト |
家に閉じ込める、食事を与えない、ひどく不潔にする、自動車の中に放置する、思い病気になっても病院に連れて行かない など |
心理的虐待 |
言葉による脅し、無視、きょうだい間での差別的扱い、子どもの目の前で家族に対して暴力をふるう(ドメスティック・バイオレンス:DV)、きょうだいに虐待行為を行う など |
(厚生労働省のHPより引用)
ここには現在の「いじめの定義」の主題とも言える<当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じている>という文言が入っていません。
おそらく「虐待の定義」にこれを明記できないのは「早期の虐待」では、その対象の乳児幼児は自我が未発達であるためだからであろうと推測できます。(確かに厚生労働省のこの定義は「児童虐待」という文言を使用しており、乳児幼児を対象にしているのかどうかは曖昧にしています。しかし、だからこそ乳児幼児に対しては一日でも早く救済の手を差し伸べなければなりません。)
しかし「就学年齢以降の児童虐待」については、この文言は有効性を発揮しますから、はっきりと“明文化”するべきだと考えます。もちろん、それを基にして周囲のオトナたちがどのような行動をとるか・とらねばならないかについては次の課題として論議されなければなりません。
「児童虐待」の件数が増えているのは、厚生労働省の対応(虐待の定義の議論を含めて)が遅れているからなのかもしれません。
ここでようやく今回のコラムの“お題”である「勉強しなさい!は虐待か?」について私見を述べさせていただきます。
結論として、『勉強しなさい!は虐待である』と明言します。それは表面的には上記の4種類の内の<心理的虐待>に分類されますが、その根底には<ネグレクト=育児放棄>が起因していると考えます。
本来、勉強の習慣は子どもが小さいうちに親が意図的に身に付けさせておかなければならないものです。それは箸の持ち方や鉛筆の持ち方、文字(漢字)の読み書きや読書の習慣と何ら変わりがありません。これらの習慣は放って置いて自然に身に付くものではなく、親が意図的に(愛情を持って)『教育して』いかなければならないものです。親自身がこういう手間を掛けられない場合は、そういう環境に子どもを委ねるという選択もできます。就学前や小学校低学年時では「まだ小さいからイイや」という判断で毎日ゲームやスマホをいじらせておいて、後になって「勉強しなさい」と小言を言うのは筋違いだと考えます。つまり「勉強しなさい!」は<ネグレクト>+<心理的虐待>という時間差をおいた<二重の虐待>だという判断をしています。
とは言っても、それは保護者の方々を責めているのではありません。なぜなら保護者の方々もまた“この虐待の被害者”である可能性が高いからです。
『虐待は連鎖する』と言われています。(連鎖はしないという反対意見や、連鎖する率は30%~50%という説もあります)そして『虐待の連鎖』の原因として考えられている「心理的作用」には、私がこれまでに心理学系の本を読んで理解している限りでは以下のようなものがあると考えています。
①「子どものころに自分の親から得られなかった欲求(もっともっと勉強させて欲しかったなどの強い思い)を自分の子ども(=自分と同人格だと思っている)によって成就させようとする」(相互依存型)
②「子どもの頃に受けた虐待を、今度は被害者から加害者に(子どもという弱い立場から親という強い立場に)なることによって自分の心の傷を癒そうとしてしまう」(弱者攻撃型)
③「子どもの頃に受けていた虐待(勉強や習い事の強要なども含む)を親からの愛情だと錯覚し、自分の子どもにも無意識に同様の行為をしてしまう」(倒錯愛情型)
④「子どもの頃には親の発言をうるさく感じていたが、大人になって現実を知ると我が子には自分と同じような人生を歩んで欲しくないため自分の親以上に口うるさく発言してしまう」(極度干渉型)
⑤「子どもが自分の欲求を満たしていないとそれを子どもからの拒否と感じ、自己防衛的に子どもを拒絶してしまう」(過剰防衛型)
なお、これらの作用はそれぞれが別個に発動するだけではなく、二つ三つと複合的に発動することもあります。
いかがでしょう。どんな「親」や「大人」にも、よくよく過去を思い起こしてみると、自分がされたことや自分がしてきたことの中に、思い当たることの一つや二つは蘇ってくるのではないでしょうか。
そして多くの心理学の本やカウンセリングの本の中で述べられていることは、「ひとりで悩まずに誰かに相談することが大切だ」ということです。
『塾』や『塾長』もその相談相手の一つにはなるのですが、しかし誤った選択をすると「虐待の片棒を担がせ」て我が子への虐待を助長することにも繋がりかねません。そうなると「ダブルで子どもを追い込む」ことになってしまいます。
それはどういう意味かというと、「その塾長も、場合によっては学校の先生も、自分の過去を清算していない・乗り越えられていない場合が考えられる」のです。つまり、これらの大人もやはり“この虐待の被害者”である可能性が高く、無意識に子どもへの虐待(今回の場合は勉強あるいは成績を上げるという行為)を「良かれ」と思って実践し、『虐待の連鎖』を繰り返していることが考えられるからです。
「いじめ」もそうですが「虐待」もまた<当該児童生徒の心身の苦痛>を和らげること、つまりは「被害者を救済すること」=“勉強で苦しんでいる児童生徒たちを救ってあげること”を第一に考えて行動しなければなりません。しかしそれにはそれ相応の『教育力』や『指導力』が求められ、そして簡単には解決されません。
一方では「保護者の救済」も必要ですが、それは「専門機関」の管轄で『塾』が関与するべき問題ではありません。さらに、『教育の力』では解決できないような「深刻な虐待」は「深刻ないじめ」と同様に直ちに『警察に通報』するべき案件です。
プロフィール
丹羽塾長
<現職>
桐生進学教室 塾長
<経歴>
群馬県立桐生高等学校 卒業
早稲田大学第一文学部 卒業
全国フランチャイズ学習塾 講師
都内家庭教師派遣センター 講師
首都圏個人経営総合学習塾 講師
首都圏個人経営総合学習塾 主任
首都圏大手進学塾 学年主任
都内個人経営総合学習塾 専任講師