【塾の先生コラム】「洗脳」と『教育』(桐生進学教室)
| はじめに
先日、桐生タイムス社の社長であり、この「みんなの学校新聞」の代表でもある木村さんから直々に、「他の教育関係者から、この企画には桐生進学教室の塾長の意見を載せた方が良い、という推薦があったので、丹羽先生にもぜひ参加していただきたい」というありがたいお誘いがありました。
その時に私は「私をご存知の方々が私を推薦してくださったということは、かなり奇抜で過激な内容を皆さんは期待していらっしゃるのでしょうね。それで宜しければお受けいたします」とお答えしました。
「それで構わない、むしろそういう意見を望んでいます」というお返事をいただきましたので、これからしばらくの間、私の“奇抜で過激な”意見を(とは言っても本人は至って“当たり前で普通だ”と思っている考えを)この場で述べてゆくつもりです。
私を推薦してくださった私の友人たちとこの機会を与えてくださった木村社長には心から感謝いたします。
さて、私の塾は『桐生進学教室』という名で、「有名・難関大学進学を前提とした、小中学時点における実力養成」を掲げて“学力の向上”を第一目的とした指導をおこなう<進学塾>です。
「入塾案内」にも以下のような記述を載せています。
<中間期末対策をする塾は“補習塾”である。>
▼“塾”は一般的に『進学塾』と『補習塾』と『総合塾』とに分かれますが、桐生進学教室は桐生で唯一の進学塾です。「桐生のナンバーワン進学塾」なんてキャッチコピーを使っていますが、実は「桐生のオンリーワン進学塾」の方が正しい言い方なのです。残念ながら桐生進学教室は“進学塾”としては桐生では唯一の存在です。
▼東京で「ウチの進学塾は中間期末対策をしてくれるの」なんて言ったら、「・・・・・・??」と返ってきます。それは「このお刺身は中まで火がよく通っているね」と言うくらい不思議な(矛盾した)表現なのです。『進学塾』とは、“難関大学進学を前提とした指導”を、小学生の時点で(中学受験も含む)、あるいは中学時点で(難関高校受験も含む)行う塾のことで、とにかく「学力の向上」に重点を置きます。それに対して学校の授業やテストなどへの対策に重点を置いた塾は『補習塾』と呼ばれます。『総合塾』はそのどちらの要素も持っていますが、少なくとも“難関大学進学”は期待以上の結果ではあれ、具体的な目標には成り得ません。レベルやシステムが“進学塾”とは全く異なるからです。中間期末対策をやっていること自体・・・。また、中間期末対策を塾に頼ること自体・・・。それで「有名大学進学」ですか?
▼そんなことより、『塾』の選び方を間違えたことで深刻な事態に陥る危険性があることの方が重大な問題です。それは、中間期末対策で内申点を上げて「前高・前女」や「太高・太女」などの“進学校”に合格・進学した場合の、その後はどうするのか、という問題です。そういう生徒に「学力」も備わっていれば特に問題は無いのですが、もし「学力」が備わっていなかった場合はどうでしょう。そういう“進学校”の授業のレベルやスピードに付いて行けるのでしょうか。“進学校”に行くのは、その先の“有名大学・難関大学”への進学を希望しているからなのに、肝心の「学力」を鍛えて置かなかったとしたら・・・。高校の勉強内容が格段に厳しいことは親御さんの方がよくわかっていますよね・・・?!
そして、<結果>も出しています。(→ 塾のHPをご覧ください。)
皆さんは一読してみて上記の内容を“奇抜で過激だ”とお思いになりますか、それとも“当たり前で普通だ”とお考えでしょうか。
それではいよいよ今回の<本題>に入っていきたいと思います。
| 「洗脳」と『教育』
軍国主義時代の日本では「お国のために戦って死ぬ」ことが最上の価値を持つことだと「教えて」いました。同じ時代のドイツでも「アーリア人が優秀でユダヤ人は劣っているのでこの世から抹殺するべきだ」と「教育」して、さらには実行までしていました。
今から考えればこれらの考えは“大きな間違い”で、こういうことを子どもたちや友人・知人に教え広めることは「洗脳」と呼ばれ非難の対象になります。
しかし、世界に目を向けて見ると、相変わらず「女は勉強するな」「黒人は劣っている」「敵を殺せ」などの差別や偏見,軍国主義がはびこっていて、そのような国や地域ではこのように国民や子弟を学校や家庭内で「教育」しています。
これらの人間たちからすれば「民主主義」「平等主義」「平和主義」を『教える』ことこそが国民や子弟を良くない考え方に「洗脳」することだと認識しているのでしょう。
話が大袈裟になり過ぎないうちに、話題を身近なところに移してゆきます。
私は<学力の向上>に強い信念を持っています。
何らかのハンディキャップを持っている場合や幼少の頃から明確な将来展望を抱いている場合(歌手になりたい・スポーツ選手になりたい・職人になりたいなど)を除いて、『学力を向上させるための教育』は必要であると私は考えています。ましてや将来はしかるべき大学に進学したい・させたいと考えている生徒や保護者にとって、そういった教育は必要不可欠な要素だと確信しています。
もちろん、それ以前の根底に置かれている「人としてあるべき人になるための教育」は、ここでは言うまでもないことです。
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もう遥か以前のことになりますが、私には<教祖>と呼ばれていた時期があります。たぶん私には何らかのカリスマ性があったのでしょう、生徒たちや保護者の方たちからそんな風に言われていました。
さて、ここで塾の「父母面談」での1つのエピソードを紹介します。(もちろん実話です)
保護者「先生、ウチの子を勉強好きな子になるように“洗脳”してください。」
私「お母さん、私は“洗脳”なんてしませんよ。勉強は本来は楽しいものです。だから勉強の楽しさを『教えて』はいきますが、“洗脳”はしません。時間はかかるかもしれませんが、この子が勉強の楽しさに気づいてくれるといいですね」
保護者「そんな悠長なことは言わないでください。すぐにでも“洗脳”してもらって、しっかり勉強してもらって、希望校に合格できるようにしてください!」
私「 ― ― ― 」← さて、なんと応えたでしょう?
正解は下のA~Dの中にあります。
A「大丈夫ですよ。私が“念”を込めたこの鉛筆と消しゴムを使えばどんな入試だって必ず突破できますよ。中間期末対策もばっちりですからね。」
B「心配しないでください。今年も入試問題をズバリ“的中”させて必ず満点を取らせますから。私は生徒の合格に命を懸けていますからね。」
C「私は誰かを“洗脳”する力なんて持ってはいません。塾長としてやるべきことをしてゆくだけです。あとは生徒本人の意思と行動によって決まります。」
D「劇的な変化を期待するなら一つだけ方法があります。引き出しを開けて、ドラ○もんが出て来たら“秘密道具”を出してもらいましょう。可能性はゼロではないハズです。」
この会話の中での「洗脳」と『教育』は、間違った使われ方はしていません。
私(塾長)にとって『学力の向上』は<正しいこと>だと考えているので、「洗脳はしない、教えてゆく」と答えています。
一方で保護者(お母さん)はしきりに「洗脳してくれ」と訴えています。これは、この面談の時点ではお母さんの中での勉強や学力に対する価値観が変わっていた(だから子どもをこの塾に入塾させた)にもかかわらず、この子が小さい時から親が“教えて”きた価値観を子どもの方はまだ持ち続けていることに対しての焦りや罪悪感から発せられたコトバであろうと理解することができます。
つまり、正しくは「私(お母さん)が“洗脳”してきた勉強や学力への価値観を正しい方へ『教育』し直してほしいが、洗脳という強い力に対しては“逆洗脳”という強力な力を加えてもらうしか手立てがない」という切羽詰った思いだったわけです。
有名・難関大学への進学を目指して『高度な学力』を養成しようとすることは、はたして“エリート意識”“生意気”“ずる賢い”ことでしょうか。それとも『社会的に意義のあること』『推奨されるべきこと』でしょうか。
「何もそんなにレベルの高い内容を小中学生の頃から教えなくても・・・・・・」という方たちの価値観を否定するつもりはありません。ただ、「もっとレベルの高い教育を受けたいので○○高校に進学したい」とか「自分と同じような価値観や意欲を持つ人たちと一緒に学べる<難関大学>に進学したい」という自覚を、例えば中学生の途中で持った生徒に対して、限られた時間の中でいったいどれだけのことをしてあげられるだろうかという現実に、私は常に直面しています。
いわゆる『反抗期』に、子どもたちは大きく価値観を転換させます。その子にとってそれまで親から教わってきたことが果たして“洗脳”だったのか『教育』だったのか、審判が下されるときです。
それと同時に、親にとってもそれまで我が子に示してきた価値観が、大人になろうとしている我が子にとって本当に正しかったのかどうか、が、自らに新たな問いとなって迫ってきます。
「洗脳」と『教育』は、価値観と行動様式の違いに過ぎません。どちらが正しいとか間違っているとか、そういう単純な問題ではありません。でも、だからといってこれらの違いについては無自覚であってはいけません。それは教育に関わる総ての人たちだけでなく、子どもを持つ親にも求められることだと考えています。
私は「洗脳」と『教育』との間には明確な違いがあると認識しています。
すなわち「洗脳」とは自分の意思を持たずに自らの行動様式やその結果を他者に委ね・押し付けて「私はあの者たちにだまされていたから全然悪くない」「いや、信じて行動したのはあなたの方で私は私の信念を伝えただけで当方に全く責任はありません」と互いに<責任逃れをすること・させること>で、それに対して『教育』とは自らの意思で思考し行動することの大切さを、先に生まれたとはいえやはり<同じ道を求める者>として共に悩み互いに成長し合ってゆくことだと考えています。
そしてこの考えに従えば、「このプリントさえやっていれば中間期末で点が取れるのだから私たちを信じてひたすらこの宿題だけをやっていなさい」とか「私たちには入試問題を的中させる特別な力を持っているのだからすべて任せて安心してついてきなさい」とかを本気で主張するような塾がもしあるとするならば、それらは前者に分類されることでしょう。
もう一度この文章の始めの大袈裟な話に無理やりに戻すならば、前者は私の憎む「ポピュリズムからファシズムへの道」に通じ、後者は私の求める「真の民主主義」へと通じているものだと強く信じています。
また、先にも述べた通りに、これは「どちらが正しいか」という問題ではなく、自分のために? あるいは子どもたちのために「どちらを選択するか」の問題です。
| おわりに
強い信念のもとで生徒たちを指導しながらも、私は「私の信念は本当に正しいことなのだろうか」「難関大学への進学を目指すことはこの子にとって本当に良いことなのだろうか」「私はこの子たちを“洗脳”しているのではないだろうか」と、日々自問自答を繰り返しています。
次回は「塾」と『正義』について、私見を述べさせていただきます。
プロフィール
丹羽塾長
<現職>
桐生進学教室 塾長
<経歴>
群馬県立桐生高等学校 卒業
早稲田大学第一文学部 卒業
全国フランチャイズ学習塾 講師
都内家庭教師派遣センター 講師
首都圏個人経営総合学習塾 講師
首都圏個人経営総合学習塾 主任
首都圏大手進学塾 学年主任
都内個人経営総合学習塾 専任講師