【塾の先生コラム】「塾」と『正義』(桐生進学教室)
| ある塾の広告から
もう15年ほど前のことになりますが、ある塾が新聞折込のチラシ広告の前面に『塾の正義』と題した文章を掲載していました。それはこのように書き始め、次段のようにまとめていました。
『塾の正義』
「塾」というものは、「きちとんとした学習の仕方を教え」「学習の習慣をつけさせ」「くじけそうになる子どものやる気を持続させ」「その学習の成果として成績を上げ」「自らの進路への希望を抱かせ」そして「志望校合格に導く」という役割を果たさなければならないモノです。 わたしたち○○は、そうした「塾の正義」に創立以来ずっとこだわり、多くの子どもたちとしっかり向き合った指導を続けてまいりました
・・・中略・・・
ただし、私たちは「効率」の良さだけ、うわべだけの見せかけの「得点力」を追求するような指導法は断固否定します。古来、『学問に王道なし』と言うように、勉強に対する謙虚で真摯な姿勢を尊重し、うわべだけではない、しっかりした学習に基づいた、本当の「学力」を身につけてもらうことを目指しています。
・・・と。
ちなみにこれは私の塾の広告ではありません。これよりも前に同じような内容の文章を私の塾の広告で私が主張したことがあるので、この文の内容は私の頭の中にすっと入ってきました。
余談になりますが、これよりもっと前に私が当時所属していた学習塾団体の友人の塾の広告に私の塾の広告の文章の多くの部分を無断で転載された事がありました。その友人は元々は他業種の研究員で、転職して塾長になった方でした。
彼の主張はこうでした。「元の業界では他社が発明・改良した製品は、全部では違法になるが一部を無断で“利用”することは日常行われていることなので、丹羽さんにリスペクトをしているが故に利用させていただいた」と。
それでも私は納得することなく、その団体の他の友人たちを巻き込み、やがて私の方からこの団体を去る要因のひとつになりました。どんな事情や目的があろうとも「ヒトマネ」はやってはいけません。
話を戻しますが、この広告の文章が主張する内容に私は全面的に賛成しました。前回の文章で述べたように、この主張は「洗脳」ではなく『教育』を重んじ実践してゆこうとする決意表明となっていたからです。決して「中間期末対策」などをしない、もちろん「入試問題を的中」させることもしない、<正しい塾>であろうとする姿勢が見られたからです。この塾の先生たちとは“おともだち”(同志)になれるかな、と、ちょっと期待をしたものです。
| 塾に「正義」はあるのか?
でも、この時、もうひとつ別の考えが頭に浮かびました。
・・・・・・はたして「塾」に<正義>というものはあるのだろうか・・・・・・、と。
私は『任侠』の世界が好きです。高倉健さんや鶴田浩二さんたちが演じる「任侠の人たち」をカッコいいと思って育ってきました。「清水次郎長」「大前田英五郎」「国定忠治」も好きでした。
彼らには彼らの<生き様>があり、彼らなりの<哲学>や<美学>そして<正義>を持っています。でも、別の視点から見れば彼らは「反社会的組織」(ハンシャ)の「構成員」ということになります。つまり<塾の正義>は存在しても「塾に正義」は存在するのか、という別の問いが同時に発生します。
私個人の意見としては、「塾」は『正義ではない』と考えています。
その具体的な例として真っ先に挙げられるのは「中間期末対策」です。この「中間期末対策」というのは『犯罪行為に等しい』とさえ考えています。
そもそも中間テスト・期末テストというものは、『学校』の先生がおこなった授業を生徒がどれだけ理解できているのかを測るための『公(おおやけ)の仕組み』です。また「先生と生徒との真剣勝負」という側面も持っています。そしてその結果が『通知表』や『内申書』という『公文書』になってゆきます。
塾の先生は<行政書士>でも<司法書士>でもありません。もし<中間期末対策書士>という資格が創設されてその資格を持っている者ならば中間期末テストという『公文書』に関わっても良い、ということになるのであれば話は別です。
それに、この文章をお読みの<お父さん・お母さん>は中学生の時に中間テストや期末テストを誰かに頼っていましたか?
今みたいに「対策バッチリ」の塾に通っている同級生がいたとしたら、その子に対してはどのような印象を持ちましたか?
学校の教科書という極めて限定された内容から生徒の理解の到達度を公平に測れるような問題を真剣に考えて作成している先生方のご苦労を、なぜ知ろうとはしないのでしょう。ましてや「塾の先生」というオトナたちがよってたかって<対策>を立て、生徒は生徒で安易にそれを受け入れて試験を受けている現状の、どこに『正義』が存在しているのでしょう。
| 塾は「反社会的組織」!?
ちょうど中間期末対策を推し進める塾が桐生にも進出し始めた頃、私は桐生タイムス社が主催した「覆面座談会」に学習塾の代表として呼ばれて保護者の代表の方ふたりと現役の中学校教師の方ひとりの合計4人で、『高校進学は今』というテーマで(桐生タイムス社の会議室で)話し合いをしました。その時期はまさに公立高校に「推薦入学制度」(=現在の「前期試験制度」の前段階)が導入され始めた時でもありました。
その席で中学校教師の方がオフレコで次のようなことをおっしゃいました。
「この推薦入学制度はとても罪作りな制度です。学力の向上や公立私立進学校を目指して塾に通うことは仕方がないとしても、その塾が推薦入学制度を利用して中間期末試験対策に乗り出したら経済的に塾に通えない生徒は結果として公立高校への入学が不利になり授業料などの負担が大きい私立高校に行かざるをえなくなる。私のクラスにも何人もの生活困窮家庭の子どもがいて、塾にも通うことができずにそれでも一生懸命に自分の力だけで頑張っているのに、こういう家庭や子どもたちをさらに追い詰めるような制度の導入は同じ公務員として本当に情けないと思う」
隣国の中国ではつい最近、『塾は反社会的組織』であるという判断を下しました。そこには塾に通える・通わせられる財力を持つ家庭とそうではない家庭の格差が広がる・ひいては社会不安が広がることに対しての懸念があるとも言われています。
「学力の向上」を標榜している私の塾(塾長である私自身)は、学力の格差が所得の格差や社会的立場の格差につながってゆくことへの<ジレンマ>に悩んでいます。(今はむしろ都市部の人たちに格差を広げられてしまって地方に住む我々の将来はいったいどうなってしまうのか、という“追う立場”ですが・・・)
だから中間期末対策を全くおこなわない私の塾でも「自分は正義だ」とは思っていません。<私の正義>はあっても「私は正義ではない」と言い切れます。
それなのに、高度な「学力」以前の基礎の基礎である『中間期末テスト』に塾が介入することに対して、この国=日本の指導者や国民一人ひとり、ましてや中間期末対策をおこなっている塾は<罪悪感>のひとつも感じることはないのでしょうか。
| 塾と「仁義」
熱くなり過ぎないうちに話題を変えます。
先ほど話題にした<任侠の世界>では『仁義』という言葉も頻りに使われています。『仁』は、元々は儒学の用語で『義』よりも上位に位置づけられていて<人として守るべき倫理の最重要項目>とされています。
かつて私が首都圏大手進学塾に勤めるときに「誓約書」を書かせられました。
その内のひとつが「塾として独立開業するときにはこの大手進学塾のどの分教場(支店)からも5㎞以上離れた場所であること」という内容でした。その時に面接してくださったその塾のナンバー2の方からはこんな一言も添えられました。
「独立開業するときに元の塾から5㎞以上離れたところというのは文書による契約以前に、塾の業界人としてのモラルつまり仁義だ。退職するときも黙って去れ。生徒に独立開業を話したり、ましてや教え子たちを連れて独立したりするような事があれば、それはもう人として終わりだ」
そう言えば群馬県内に本部がある大手塾からわずか100mのところに独立開業した塾がありましたが、確かその塾長は元の大手塾の教室長でしかもどういう因縁か「▽」という名を持っていたような記憶があります。因果応報という言葉が生きていたかどうかはわかりませんが、部下の「人として最低」な不祥事によって跡形もなく消えてしまいましたね。
まだまだこの国=日本には『仏の教え』とか『言霊』(コトダマ)とかに関わる何かが存在し機能しているのかも知れません。
次回は「正義」の反対は『別の正義』という題で私見を述べさせていただきます。
※ 私の投稿に対する異論反論は、私へではなくこのサイトの編集局へ直接伝えてください。よろしくお願いします。
プロフィール
丹羽塾長
<現職>
桐生進学教室 塾長
<経歴>
群馬県立桐生高等学校 卒業
早稲田大学第一文学部 卒業
全国フランチャイズ学習塾 講師
都内家庭教師派遣センター 講師
首都圏個人経営総合学習塾 講師
首都圏個人経営総合学習塾 主任
首都圏大手進学塾 学年主任
都内個人経営総合学習塾 専任講師