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【私小説】Nの青春<第3章> その1

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【私小説】Nの青春<第3章> その1

文化

みんなの学校新聞編集局 
投稿日:2023.07.13 
tags:桐生進学教室, N君の青春

第3章

 歌は心を潤してくれる。 リリンの生み出した文化の極みだよ。

               ~  渚 カヲル  ~

 

 

 Nの少年時代は日本の高度経済成長期の真っただ中だった。

  経済成長に伴う「文化水準」の向上も、Nが住んでいた地方都市G県K市のさらに周辺地域であるH町にまで及んできた。その一つが「オルガン教室」だった。それはやがて(と言ってもほんの数年の内に)「ピアノ教室」に替わって行った。まだその頃は独立した音楽教室ではなく、そのほとんどが私立の保育園で園児たちが帰った後の空き教室を利用したものだった。私立保育園の収入アップと“保母さん”たちの副収入が主な目的だった。月謝も今から考えれば相当に安かったのだが、その教室に通うためには個々の家に練習用のオルガンやピアノがなければならず、だから、「オルガン教室に通う=家にオルガンがある」引いては「ウチの子はオルガン教室に通っているのよ=ウチにはオルガンがあるのよ」つまりは「オルガンを買えるだけの経済的余裕があるのよ・オルガンを家の中に置くくらいの広さもあるのよ」または「音楽という文化活動にも理解があるのよ」という“ステイタス”の表れでもあった。これが後の「ピアノ」ともなればその購入金額は1ケタ違うため、「ステイタス」の方も1ケタレベル以上の違いが出てきた。(ヴァイオリンと比べてしまえばピアノなどはその足元にも及ばないのだけれど…)

 

 

 Nの母親は、戦後の農地改革で没落したとはいえ由緒正しき旧家の出であったために、さっそく自分の娘(Nの姉)をこのオルガン教室に通わせた。そして「お前も通ったらどうだい。」と、Nにも声を掛けてくれた。

 Nは当時の男の子たちが普通にやっていた「外遊び」が苦手だった。もともと病弱だったNはそもそも外遊びがあまり得意ではなかったのだが、農家(百姓)の後継ぎであったNの父親にしてみれば“後継ぎ”であるNには地域の子供たちに馴染んで欲しかったのであろう(農業は地域との連帯が必要な業種なのだ)、外で近所の男の子たちと遊ぶことを強く勧めた。この「外遊び」たるや、捕まえたカエルの尻から麦藁ストローで空気を吹き込んでお腹の膨れたカエルを再び池に放ってそれをめがけて石をぶつけるとか、その尻に爆竹を突っ込まれたカエルが必死になって泳いで逃げるが数秒後には爆〇するとか、山の洞窟に入ってカマドウマ(コオロギに似た?虫)を焼き○すとか、蜂の巣を見つけてその蜂の子を生のまま食べるとか、桑の実(ドドメ)を口いっぱいに頬張って(ツギアテの)服さえも紫色に染めたりだとか、とにかく“野蛮”なことが多かった。

 だから、「オルガンなんてオンナがやるもんだ。オレはゼッタイにオルガン教室なんて通わないもんね。」と、リーダー格の少年が言うと、「そうだ、そうだ。」と皆こぞって「男の子」を主張し始めた。Nは終ぞ「僕も通いたい」と母親に言うことはなかった。

 それでいて「男の子」たちの遊び場は近所の田畑や里山からオルガン教室が開かれている閉園後の保育園の園庭に変わった。楽譜などの入った音楽教室名が書かれている「手提げカバン」を持った女の子たちが園庭に入ってくると、「やーい、やーい。」と囃し立てた。つまり、Nの周りの男子たち(の家)は貧乏で無教養だったのだ。たかだか保育園のオルガン教室に通うことですら「憧れ」であり「嫉妬」であり「妬み」の対象であった。なお、彼らの内では誰一人としてK高に入学できた者はいなかった。それが『悪い』のではない、ただただ『悲しい』という事実だけだ。

(つづく/毎週木曜日掲載)

 

プロフィール

丹羽塾長

<現職>

桐生進学教室 塾長

 

<経歴>

群馬県立桐生高等学校 卒業

早稲田大学第一文学部 卒業

全国フランチャイズ学習塾 講師

都内家庭教師派遣センター 講師

首都圏個人経営総合学習塾 講師

首都圏個人経営総合学習塾 主任

首都圏大手進学塾    学年主任

都内個人経営総合学習塾 専任講師

 

 

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